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投稿日:2026年6月10日

デジタルツインで現場の暗黙知が抜け落ちるリスク

デジタルツインはサイバー空間に工場を再現し、設備稼働・品質・コストを可視化する強力な道具だ。しかし「デジタルで測れないもの」を最初から設計に組み込まなければ、ベテランが長年かけて蓄えた調整力・判断力が静かに失われていく。経済産業省が2019年に提唱した「デジタルトリプレット」概念が示すように、物理世界とサイバー世界だけでなく、人の知的活動世界を第3の軸として加えることが、暗黙知の消失を防ぐ根本的な対策になる。

デジタルツインが「測れないもの」を可視化しようとするとき何が起きるか

工場のデジタルツイン導入プロジェクトが進むとき、現場で最初に起きる変化は「データを取る工程の選定」だ。IoTセンサー、カメラ、PLCログ——取れるデータはどんどん増えるが、データ収集の設計者が無意識に行うのは「センサーで取れる工程を優先する」という判断だ。その結果、溶接熱の”におい”で不具合を予知するベテランの嗅覚、切粉の色で工具の刃こぼれを察知する経験則、原料ロットごとに混錬時間を1〜2分延ばす無言の習慣——こうした感覚知が設計図に載らないまま脱落していく。

調達購買の実務でも同じ構図がある。当社がこれまで200社超のサプライヤー工場を訪問してきた経験から言えば、品質問題の再発原因を深堀りすると「マニュアルには書いていない現場の慣行」が消えていたケースが少なくない。DX推進に伴い標準化・マニュアル化を進めた結果、ベテランが暗黙のうちに行っていた「補正行動」が「非標準」として排除され、それが不具合率の悪化につながっていた。

調達現場で押さえるポイント

サプライヤー評価においてデジタルツインの導入状況を確認する際、「何を取っていないか」を聞く視点が肝になる。センサー点数や可視化ダッシュボードの豪華さよりも、「ベテランが日常的に行っている微調整をどう記録・継承しているか」を問うことで、サプライヤーの現場力の実態が浮かび上がる。

政府・学術機関が認めた「デジタルツインだけでは足りない」という事実

デジタルツインを導入すれば現場の知識が自動的に保存されると考えるのは、楽観的すぎる前提だ。経済産業省の製造産業局は2019年の審議会資料の中で、「デジタルツインの概念を拡張し、現場のカイゼンや熟練者の暗黙知などの知的活動世界までを一体的に構築するデジタルトリプレット型の生産システムについて研究開発と人材育成を行う」という方向性を明示した。[1] これは裏を返せば、通常のデジタルツインだけでは現場の知的活動が取りこぼされることを認めた公式宣言でもある。

学術側では、日本機械学会の2022年発表論文「Digital Tripletに基づく工程設計支援」(東京大学・トヨタ自動車共同研究)において、「DT alone is not sufficient for solving practical problems that occur in an actual production system」——デジタルツイン単体では実際の生産現場で生じる実務問題を解けない——と明確に指摘されている。[2] 機械トラブルや設計変更などの予期せぬ事態が発生したとき、デジタルツインは物理的な状態を映すだけで、問題解決の「判断手順」を持たない。その空白を埋めるのが人間専門家の知識であり、それを統合したのがデジタルトリプレット(D3)概念だ。

さらに2020年版ものづくり白書は、工程設計力が「低下している」と答えた企業の要因として「ベテラン技術者の減少(79.4%)」「属人的な設計プロセス(25.0%)」を上位に挙げており、熟練者依存の現場構造が知識継承の断絶リスクに直結していることを統計で裏付けた。[3]

暗黙知の三つの断絶パターン:現場観察から導いた分類

製造業の調達購買に10年以上関わってきた当社の知見を整理すると、デジタルツイン導入後に暗黙知が失われる場面には、以下の三つのパターンがある。センサーやカメラで取れない「感覚系」の断絶、標準化によって排除される「補正系」の断絶、そして担当者交代によって消える「判断文脈系」の断絶だ。

感覚系の断絶は最も目に見えにくい。振動センサーが数値として取れる前に、ベテランは盤から伝わる手の平の微振動で軸受けの状態を察知する。このレベルの感覚知はセンサー密度を上げても原理的に代替しにくく、NEDOが産総研と開発した「作業者のスキルや身体的な違いを考慮した」デジタルツインにおいても、「従来は難しかった瞬時の推定を実現」と表現されているように、いまだ「難しかった領域への挑戦」という段階にある。[4]

補正系の断絶は標準化プロセスで起きる。冬場に金型が冷えすぎる工場では「5分余計に保温」、夏場の高湿度下では「乾燥剤を1袋追加」——こうした季節・環境対応の調整は、マニュアルに明記されることなく現場に根づいている。デジタルツイン推進で「非標準行動の排除」が徹底されると、この補正がなくなり、突然クレームが増えるという事例を複数のサプライヤーで観察してきた。

判断文脈系の断絶は最も深刻だ。「なぜその判断をするのか」という背景知識が引き継がれない。新たに着任した若手エンジニアは数値を読めても、「なぜここだけこのパラメータにするのか」の意味を理解できない。デジタルツインが精緻なほど、数値の意味よりも操作手順に意識が向き、文脈の喪失が加速する。

デジタルトリプレット:暗黙知を設計に組み込む構造的解決

デジタルトリプレット(D3)は、物理世界・サイバー世界・知的活動世界の三層で製造を捉える枠組みだ。日本機械学会2022年論文「デジタル・トリプレット構想に基づく生産システムのDX支援手法」は、「Digital Triplet is a manufacturing concept that aims to effectively utilize engineers’ knowledge with digital technology」と定義し、エンジニアの知識を工程知識として明示化・再利用する手法を提案している。[5]

デジタルツインとデジタルトリプレットの違いを一言で言えば、「何をデジタルに乗せるか」の対象範囲だ。ツインは物理的な状態をミラーリングする。トリプレットはそこに「人が価値を生み出す行為」を追加する。カイゼン活動、設備保全の判断プロセス、工程設計のノウハウ——これらが第三の層として蓄積・循環するとき、暗黙知は消えずに組織の資産になる。

調達現場で押さえるポイント

金属加工・樹脂成形・化学・電気電子・組立完成品の5ジャンル横断で見ると、D3的アプローチの実装レベルが最も高いのは、長年の改善活動(カイゼン)文化が根づいた組立完成品系サプライヤーだ。逆に最も遅れているのは、センサーやMES(製造実行システム)の整備が先行しがちな化学・樹脂系。「データは取れているが、判断の文脈が記録されていない」状態を産んでいる。

工程設計力の低下を読む数字:調達担当者が知るべき統計

経済産業省の2020年版ものづくり白書が引用した三菱UFJリサーチ調査(2019年12月実施)では、工程設計力が低下していると回答した企業の要因として「ベテラン技術者の減少」が79.4%と断然首位を占めた。[3] この数字が示すのは、工程設計力という「ものづくりの頭脳」が特定の人間に紐づいた状態で存在しており、その人が去れば力ごと消えるという構造的脆弱性だ。

2024年版ものづくり白書では、デジタル化対応人材の確保・育成が独立した節を構成するほど重要テーマとして取り上げられており、製造業の就業者数が2024年には1,046万人とわずかに減少傾向にある中、技能継承の窓が急速に狭まっていることが示されている。[6] しかも2024年版ではモーションキャプチャを用いた熟練技能者の動作の可視化事例が収録されており、「センサーでは取れない体の動き」をデジタル化する試みが政府の視野に入ってきた。[7]

さらに2026年3月には経済産業省とNEDOが主導するGENIAC-PRIZEの表彰式が開催され、「製造業の暗黙知の形式知化」が社会課題領域の主要テーマとして設定された。懸賞金総額は約8億円で、200件超の応募が集まった。[8] 国家プロジェクトとして暗黙知の形式知化が独立テーマになったこと自体、問題の深刻さと解決の困難さを同時に物語る。

デジタルツイン導入時の暗黙知リスク:フェーズ別チェックマトリクス

フェーズ 主なリスク 暗黙知が消えやすい工程 対策の方向性 D3的アプローチの有無
①要件定義 センサー対象工程の偏り 感覚・嗅覚が主なQC工程 ベテランとのワークショップで「計れない工程」を先にリスト化 ❌ 未実装が多い
②データ収集設計 測定値主義による補正行動の無視 季節・ロット対応の調整作業 調整行動を「非標準」でなく「条件付き標準」として記録 △ 一部企業で実装
③標準化・マニュアル化 補正系・文脈系の断絶 保全判断、工具交換タイミング 「なぜそうするか」の判断根拠を動画・音声で記録 ❌ 未実装が多い
④稼働・モニタリング アラートへの対応力の低下 イレギュラー発生時の初動対応 「前回何をしたか」の処置ログをAIで検索可能に ✅ 先進企業で実装
⑤改善・カイゼン カイゼン活動がデータに反映されない 作業順序・治具配置の微調整 D3の第三層:カイゼン知をサイバー世界に還流させる仕組み △ 研究・実証段階
⑥人員交代・新人教育 判断文脈系の断絶 工程設計・品質判断の根拠 ナレッジグラフ型の判断事例DB構築 ❌ 未実装が多い
⑦設備更新・ライン変更 旧設備に紐づいた暗黙知の消失 段取り・立上げ時の職人技 更新前の熟練者へのインタビュー・映像記録を必須化 △ 属人的に実施の場合あり
⑧クレーム・異常対応 再発防止策が形骸化 原因究明における感覚的な「気づき」 4M変化点とともに「誰が何を感じたか」を記録に残す ❌ 未実装が多い
⑨サプライヤー評価 スコアカードが数値しか反映しない 現場力・応用力の評価 定性観察(工場訪問)と定量スコアの組み合わせを維持 △ バイヤー依存
⑩予知保全設計 保全技術者の判断知が学習データに含まれない 保全技術者の経験的アラート解釈 D3予知保全:技術者の知的活動を設備データと統合 ✅ 精密工学会2024で提案

バイヤーが取るべき行動:デジタルツイン導入サプライヤーへの目線の変え方

調達購買担当者の立場から見ると、サプライヤーがデジタルツインを導入すること自体は歓迎すべきことだ。データに基づく生産管理・品質管理・納期管理は、バイヤーにとって可視化のメリットが大きい。問題はその先——「デジタルで取れないものをどう扱っているか」を確認する習慣が調達側に薄いことだ。

当社の調達アウトソーシング業務で蓄積した視察知見から言えば、工場見学時に確認すべき問いは三つある。第一に「ベテランが行っている非定常対応のうち、デジタルに記録されているものは何か」。第二に「品質異常が出たとき、現場の人間が最初に何をするか」(ダッシュボードを見るのか、設備に触れるのか)。第三に「過去のカイゼン事例は、次の担当者が参照できる形で残っているか」だ。これらの問いへの答えが曖昧なサプライヤーは、デジタル化が進んでいても暗黙知の断絶リスクを抱えている。

中国・東南アジアのサプライヤー網で典型的に見られるのは、ERP・MESの整備は先進的だが現場の「口頭引き継ぎ文化」が強く残っており、担当者の離職・異動でノウハウが一斉に飛ぶケースだ。デジタルツインの導入は可視化のインフラにすぎず、知識管理の仕組みが伴わなければむしろ「デジタルに管理されているから大丈夫」という過信を生む逆効果にもなる。

暗黙知を「生きた資産」にする5つの実装アプローチ

暗黙知の断絶を防ぐための手段は、高価なシステムの導入だけに限らない。むしろ取り組みの質と継続性の方が結果を左右する。以下に、当社が実効性を確認してきた5つのアプローチを示す。

1. 「取れないデータ」の明示化
デジタルツイン設計の初期段階で、ベテランを交えて「センサーでは絶対に取れない判断」をリスト化する。これだけで、後のシステム設計者が「取れていない領域がある」ことを常に意識する文化が生まれる。

2. 動画・音声による判断記録
2024年版ものづくり白書の事例では、熟練技能者の動作をモーションキャプチャで可視化し技能継承を実現した企業が紹介されている。[7] スマートフォンの動画でも代替できる部分は多く、「どう動くか」だけでなく「なぜそう動くか」を声で記録することが重要だ。

3. デジタルトリプレットの第三層(知的活動層)の設計
デジタルツインの稼働データと並走して、技術者・現場作業者の「判断ログ」を記録する仕組みを設ける。精密工学会2024年の論文「デジタルトリプレット型予知保全支援システムの提案」は、保全技術者の暗黙知と設備稼働データを統合するシステムを研究段階で提示しており、実装の参照事例になる。[9]

4. カイゼン成果のデジタルへの還流
カイゼン活動は現場知識の結晶だが、多くの場合「ビフォー・アフターの写真」に留まり、なぜその問題が起きていたかの因果構造が記録されない。デジタルツインのパラメータ変更履歴とカイゼン内容を紐づけることで、知識が工場全体の資産になる。

5. 定性的な現場観察の制度化
データ管理が整備されるほど、人が現場を見る機会が減る傾向がある。「週1回以上、ベテランが現場を歩き気になった点を記録する」制度を維持することは、暗黙知を言語化する最もローコストな手段だ。経済産業省のGENIAC-PRIZEでは「TIG溶接技術における熟練者と非熟練者の作業動画を比較してAIが差分を自動解析する」アプローチが入賞を果たしており、観察→比較→形式知化というサイクルの可能性を示した。[8]

サプライヤーの立場から:暗黙知は価格競争を超える差別化要素になる

デジタルツインが普及するほど、製造パラメータや品質スコアの「見える化」が進み、バイヤーは複数サプライヤーを数値で比べやすくなる。これは中長期的に価格競争を激化させる。しかしこの流れの中でむしろ価値が上がるのが、「測れない現場力」を持つサプライヤーだ。

金属加工・樹脂成形の複雑品領域では、同じ図面・同じ仕様でも「仕上がりのブレ」が出る。ベテランが「この素材はいつもより硬いので送り速度を落とす」と瞬時に判断できるか否かが、最終製品の品質と歩留まりに直結する。この能力はデジタルツインのデータには現れない。バイヤーが正しく評価できれば、そのサプライヤーは価格競争から一歩外れた土俵で戦える。

自社の現場力を外部に説明するための「暗黙知の見える化文書」を整備する——それが小規模なサプライヤーでも実践できるブランド化の最初の一手だ。動画、記録帳、事例集——形式は問わない。「うちの現場には、こういう判断力がある」を言語化する試みが、長期取引パートナーとしての信頼につながる。

調達現場で押さえるポイント

製造業の調達購買10年以上の経験から断言できるのは、「デジタルに全て乗っているサプライヤー」より「デジタルと人の知恵の組み合わせを設計しているサプライヤー」の方が、トラブル対応力が高く、長期的なパートナーとして安定するということだ。品質事故の起きにくいサプライヤーには、必ずと言っていいほど「現場の気づきを共有する文化」と「その気づきを記録する習慣」がある。

2026年以降の展望:生成AIと暗黙知の形式知化が本格化する局面

2025年5月に経済産業省が発表したGENIAC-PRIZEは、「製造業の暗黙知の形式知化」を生成AIで解くべき社会課題として位置づけた懸賞金プログラムだ。[8] 2026年3月の表彰式では200件を超える応募の中から42件が受賞し、TIG溶接の熟練者と非熟練者の動画を比較してAIが暗黙知を自動抽出する手法が入賞している。これは「人が動かないと伝わらなかった知識」を、映像と生成AIが組み合わさることで、ある程度構造化できるかもしれない、という可能性の入り口を示す。

しかし現場の調達実務から見ると、これらの技術はまだ実験段階にある。溶接のような「可視化しやすい動作」は比較的アプローチしやすいが、「原料の投入直前に感じる重量感の微妙な違い」や「複合要因が絡んだ設備音の変化」は、映像AIだけで形式知化するには依然として高い壁がある。2024年版ものづくり白書が専門節として設けた「デジタル化対応人材の確保・育成」[6]が示すように、技術の問題と同時に人の問題——育成・配置・継承——を並走して解かないと、ツールだけ増えて知識が空洞化する。

デジタルツインを「データの箱」で終わらせず、「知識の器」に育てることが、製造業DXの次のフロンティアだ。物理世界とサイバー世界の二軸だけでなく、人の知的活動という第三軸——これが経産省の言うデジタルトリプレット構想の核心であり[1]、調達購買から工場経営まで横断的に問われる設計思想でもある。


参考文献・出典

  1. 製造業を巡る環境変化に対する課題と方向性(経済産業省製造産業局、2019年4月)
  2. 車両製造を例題としたDigital Tripletに基づく工程設計支援(日本機械学会 生産システム部門研究発表講演会、2022年)
  3. 2020年版ものづくり白書 第1部第1章第3節 製造業の企業変革力を強化するDXの推進(経済産業省)
  4. 生産性の持続的向上と人の負担軽減を両立するデジタルツインを開発(NEDO)
  5. デジタルトリプレット構想に基づくラーニングファクトリーの構築(日本機械学会、2021年)
  6. 2024年版ものづくり白書(経済産業省・厚生労働省・文部科学省)
  7. 2024年版ものづくり白書 概要(厚生労働省)
  8. NEDO懸賞金活用型プログラム「GENIAC-PRIZE」受賞者発表(経済産業省、2026年3月)
  9. デジタルトリプレット型予知保全支援システムの提案(精密工学会、2024年)

※ 出典リンクは2026年6月10日時点でリンク到達性を確認しています。

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